自分でも何が何だか分からない

最後に笑おう、でも今から笑えたらいいな。

嫌な親と同じことをしてる自分。

こんなブログ、誰が読むか分からないけど、書く、ただ書く。

 

僕の両親、特に父は何か感謝を伝える時、

言葉で伝えることよりも、何か物を渡すことで伝える人だ。

それは、謝罪もそう。過ちを決して認めない。 その代わり物を渡すことで、受け取らせ問題を終わらせる。ごめん、すら聞いたことがない。

 

そう、父から愛ある表現は何か買った物だった。例えば、お土産のお菓子や食べ物。
有るだけ・貰えるだけ・食べられるだけ、本当にありがたいことなのだと分かってはいる。

 

例えば、出張先のことを聞くと、良い場所じゃない・田舎だ・何もない。
けど、手土産はある。みたいな。

 

そして、問題があったとしても、すぐに忘れるのだ。反論は許されない。絶対的権力。

そして、そんな父に対して母は僕に文句を言うが、決して自分から伝えない。

父が僕との約束を破っても、母は助けない。

そして、母はある日突然爆発する。そして、喧嘩となる。これが月一回。

 

昭和の厳格な祖父の育て方なのか、それをそのまま受け継ぎ今の父がある。

姑にいびられながらも我慢して生きてきた、祖母を見てきたからだろう、母は我慢や意見を飲み込むことが得意だ。

 

 

両親には両親の子育てがあり、今の僕がいる。

ただ、僕に彼らのやり方は合わなかった。

 

僕は、頭を撫でるだとか、こっ恥ずかしいけどハグだとか…どうのこうのと言った言葉の前に、愛ある優しさある行動がほしかった。

 

そう言った行動が無いがため、気付けば親の求めることをする子供になっていた。

そうすれば、親が喜びそれが愛なのだと、すり替わっていった。

 

 

特に、今自分が両親と同じことをしている。

感謝の伝え方が何か物を使っている。

人へ謝ることが下手だ。

不満や気付きを人へ伝えず、引っ込めている。

 

自分で何かを決めた後は、極度に不安になる。誰かからの承認が欲しくなる。

 

 

ただ、僕は褒めてほしかったのだ。

僕自身に、自信をつけてほしかったのだ。

 

祖父母にも、優しさはあった。

だから、今でも祖父母は好き。

けど、残念ながら祖父母はあくまで親代りであり、親が普通に生きていて育てられた者にとっては、親からの愛が一番必要だったのだ。

 

 

こんなこと、とてもとても親にも友達にも言えないけれど、僕は変わりたい。

一人で強く生きてゆきたい。

 

邪魔されたって構わない、次のその時から必ず思うことを言わなければならないのだ。

 

森の様に。

こんなブログ、誰が読むか分からないけど、書く、ただ書く。

 

親に対して不満を抱えている。

親を思うと、悶々とするのだ。

その原因の全てが親にあるのではなく、選んできた自分にもあると分かっている。

他でもない、自分が原因なのだ。

 

だけど、そうさせてきた(例えて言うと…)

家族の中に流れる文化の様な、昔は気付かずに抗えなかったものに、従ってしまったのだ。

と、言い訳をして慰めている弱い自分。

 

 

生き物が好きで、特に森林浴や雑木林、うっそうと人の手が入ってない森から見通しの効く森まで、何なら土から(上空から見下ろした時の)景色まで、多様性という言葉がピッタリ当てはまる「森」を好きになってた。

今でも好き。

 

 

今、後悔していること。

大学受験に際して、僕が通っていた高校は高3直前にして科学系3科目の中から化学・物理・生物の中から一つ選び、受験対策も兼ねて絞ってゆく。

あの時はまだ、漠然と生物系(森林に生息する生物)の学校に行きたかった。

だから、生物を取りたかった。

けれど、生物では受験校が絞られてしまう、そんな理由で先生と親に従い化学を取る、化学Ⅱの難しいこと…

化学含めえ科学は案外生活と密着していて、今でも役立つこともあるけれど、後悔。

 

そして、いざ受験となると行きたかった森について勉強出来る学部を受けようとしたら…

そんなの、一体何の役に立つのか?と父から一言。18にして、未だ父に怯えてた僕。

進路を変え、当時話題の環境系に進む。

 

最高の友達も出来たし、ゼミの先生も先輩も本当に良い方でした。結果としては、良い方向へ振れたのだと思う。

転学部や転学科も考えたけど、取得単位のハードルが余りに高く諦めました。

単なる学生と言えど、何が起こるか・やりたいことにいつ何処で目覚めるか分からないから、リベラル系の学部や転学部・転学科が容易な学校は良いな、と今改めて思うところ。

 

そして、就職活動の時期になると、親は親で心配なのだろう、あれこれ言ってくる。

その時今みたく、黙れと一言、言えば済むのに言えなかった。思えば、大した反抗期もなくおとなしい子でした。

それは、仕事を始めてからもそうでした。

 

 

何故なら、ずっと親を恐れていたから。

今思うと、何を怯えていたのか分からない程に親に従順で、そして社会人になっても今でもそう、相手の期待や希望を叶えることは得意。

でも、それを自分を後回しにするから、気付くと多くのストレスと締め切りに追われている。

 

 

社会人1年目の終わり、外部の人を招いた研修があって、研修終わりの飲み会で一言「親強いんでしょ、反抗期控えめだったんじゃない?でもね、もっと反抗して良いのよ親にも先輩や上司にも…」と。

たった2日の研修で僕を見抜いたその人は凄かったし、衝撃的だった。

本当はもっと話したかったけど、同僚に話を聞かれたくなくて酔ったふりして逃げた。

 

 

親は言う、俺たちはお前の進む人生を応援してる。お前の選択が一番大事だ、と。

俺らのサポートが要らないのなら、そう言ってくれ何も言わない。

 

ただ残念ながら、今までのやり方・習慣はそう簡単には変わらない。なぜ、人の人生にここまで首を突っ込もうとするのか、子離れが出来ていないからこちらには重いのだ。

 

そして、俺たち私たちのことは大丈夫。
我々が決めて、進んでゆくから。

もう正直、離婚だろうがなんだろうが、本当にどうでもいい。早く居なくなってほしい、とさえ思ってしまう。

親のことを疎む自分が情けなく悲しいし、こう言ったことを社会では口に出せない。

けど、これが自分の本音。

 

そして、苛立ちや疎むそんな感情もある中で、それとは反対にそれでも自分の中に愛情があることが、また心の中を難しくする。

一体何がどれが本心なのか。

 

 

美術館に行くことが好きで、風景画特に草木が描かれた絵を観ることが本当に好きだ。
なぜなのか?

それは、森を描いた作品が多くあるからだ、今日気付いた。

森の中は、隠し事や秘め事を覆い隠して、そして全てを飲み込んでくれる包容力がある。

そんな森の様になるのは難しいけど、せめてしっかりと、地面に立って生きてゆきたい。

 

もっと、強くなりたい。

思ったことをただ言えば良いのだ。

そうありたい。

 

三つ子の魂百まで。

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僕は祖父母っこ。そんな僕について。

 

祖父母っこは三文安、なんて言う。

昔、その言葉を知って傷付いたなー。

 

母方の祖母は、結婚をしたら当然の様に姑と同居したそうな。新婚さん息苦しかったろう。

そして、母が産まれると、その姑が母を寵愛。

母の妹(僕にとっての叔母)を祖母が寵愛。

という歪んだ家族が出来上がった。

その後、20年経たず祖母の旦那(祖父)死去。

そして、後を追うかのように姑死去。

 

2人の娘は当時大学生、辛うじて亡くなった父の知り合いに紹介してもらった会社にしぶしぶ入社する。

ただ時代はバブル、最高な社会人だってさ。

その後、母は父と見合い結婚をする。

 

今思うと、娘たちの花嫁姿を見ずに死んだ祖父、どんな気持ちだったのだろう。

そして、嫁に母親と娘達女に囲まれた私生活、僕やいとこ達男どもをもし見れたら、どのような気持ちを抱くのだろうか…。

 

 

僕が生まれて2年、母が体調を崩し長期入院。

僕、母方の祖母家と父方の祖父母家に預けられ、両家を行き来する。

母方の祖母家、大好きでした。ペルシャ猫が住む庭付き戸建、大きな柿の木、近くの丘から海が見え、よくお出掛けしました。懐かしい。

 

ただ覚えてないが、それでも本物の母を恋しがり、何度か祖母家を脱走して、パトカーに保護された、なんてことがあったとか…。

祖母には、まるで本物の母親の様に愛を注いでもらいました、そこに運命というか、鎖の連なりを感じます。

 

母方の祖母にとって私は初孫であり、母が長期入院の件もあってか、沢山の愛情を受けたことは事実。

そのためか、学生や社会人など、年々増す私への期待は重く重く。結婚や孫、昇進…

こちらは、昔の様にただ話をしたい・ただ愛して欲しい、という僕の思いとは裏腹に、いわゆる世間一般的な平均的で順風満帆な人生を期待され、ただただ重くなってゆきました。

 

 

父方の祖父母にも可愛がってもらいました。

何より祖父がいる、ということが新鮮でしたし、僕が大学生の時に亡くなりましたが大好きでした。

 

小学生の頃かな…家を訪ねた時のこと

母は旦那にご飯を作っているのか、きちんと掃除はしているのか、夫婦仲は良いのか…などを聞かれ、子供心によく答えようと120%盛って答えたりとか。

 

去年のこと、父方の祖母と2人で食事をした帰り、食後でリラックスをしたからか。

急に、「息子と嫁さんのお見合いの話、勧めたし結婚も賛成したけど、本当は辞めさせた方が良かったかもね。」と言われた時は本当にもう、何も言えなかっただけでなく、ただただ傷付いた。

 

自分の存在ってなんなんだろう、
僕はなんのために生まれたのか、
結婚時に理想の様に語られる愛って…

僕のこの命はどうなんだ…と。

 

反論しても良かったけど、そこで気付いてしまった。

僕の親達自身が、親の意向に従って生きてきたのだと気付いたのだ。

そして、知らず知らずの内に振る舞われる姿に、親やさらにその上の世代から脈々と受け継いだ負の鎖が見えてしまったから。

 

 

そして、改めて怖くなった。

そんな人たちの何かを受け継ぎ僕があり、知らず知らずに自分が同じ様な振る舞いをしているかもしれない、ということに。

過干渉だとか。

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http://www.nk-koubou.jp/s/2015/04/post-935.html

たまたま見つけた、親と子供の就職活動の話。

 

おそらく、就職活動の機会を経て多数の学生は、自分の学生時代や人生について考える機会が訪れるのではないだろうか。

 

就職活動に際して、親が出てくる…。

それは、僕からすれば今考えると、高校・大学受験の頃からそうだった。

どこ校は…とか、〇〇についての勉強…とか。

確かに、子供じゃ分からないことの方が多いし、そんな時にサポートしてくれるならありがたい。そもそも、お金を払ってくれるのだし。

 

しかし、聞いてもいない親の意見が出てくると、そこで、はいおしまい。

今思っても、辛かった。

そんな親の意見に対して、反対してこなかった。従ってきた弱い自分がいたことも事実で原因だと本当に感じる。

 

あまりに大きすぎる期待と、それに添えない現実とで、いつもいつもすごく苦しかったし。

何か物事を決める時、いまでもそうだけど、これをしたら親がどのように言うだろうか、もしくは周りがどのような反応をするか、考えてしまうのだ。

どうやって、その呪縛を取れば良いのか本当に分からない。もう苦しくて苦しくて。

結局、何だか自由でないような、どこか窮屈な選択ばかりしてる。

周りの反応を気にして、やりたいことが分からない人間の、はい出来上がり。

 

特に、親の時代とで学校やゼミ・研究室と企業との関わりは大きく変化している所が多々ある中で、特にバブルを経ているような方々からすると…

大手企業の子会社?そんなの辞めなさい。とか

俺が書いた、お前の学生時代についてのESで百発百中だ、とかで全落ち。とか

じじばばにあるが、親戚の誰々の会社は良いわよーとか、電力会社は潰れないわよ。とか

東日本大震災東京電力の件…)

 

とにかく、親の出しゃ張りが出れば出るほどに、子供は上手く進めなくなるのだ。

挙げ句の果てには、折角自分の力で勝ち取り決めて、働き出したとしても、その仕事ずっと続けるもんじゃないだろ。

転職は今の時代、普通だぜ。と言うのだ。

(今なら言える、お前に何が分かるんだ!!)

 

それなのに悲しいことに、今まで自分が親からの承認を経て、存在意義を見出していたから、満足して働いているつもりが、上の様なことを言われて、ブレるような弱い心のままなのだ。

 

その仕事、ESも履歴書も面接も全部自分で切り抜けて、全部自分で決めたのに。

まだまだ口を出してくるのだ。

子供の選択権無いんだよな。

 

その親の心配の先に、子供をこどもでしか見れていない・子供離れが出来てない親と、親離れ出来てない子供との共依存がここにある。

 

ある時、気付くんだ。

今の自分、自分の人生生きてないって…

でも、どうやったら良いのか分からないって…

ようやく気付いて、自分の手元にゃ大したもんねーなー、って絶望する。

シングルライフだとか。

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東洋経済を読んで思った。

http://toyokeizai.net/articles/-/143879

結婚をしない、独身男についての記事。

 

僕には、結婚はリスクでコスト。

ただそれだけ。

 

何より、僕は物心ついた時から、親が月一回は喧嘩をする家庭だった。

仲が良いというか、というよりそれで彼らはバランスを取っていたのだろう。

 

喧嘩の途中、突然包丁を持ち出してきたり、

家を出て行ったり、ギャーギャー喚いたり、取っ組み合い、泣いてたりする。

 

そんな姿を見て、泣きたいのはこっちだったし、挙げ句の果てに子供が見てんだろ…と、喧嘩を止めたいがための口実に子供である僕の話題が突如出てきたりする。

 

嫌だったなー。

 

そう、突如として勃発するのだ、車でファミレスへ外食に行こうとしたある夕方、その車中で勃発、食事中も雰囲気最悪、帰宅中も最悪。

親同士が悪い雰囲気を出すと、こちら子供が振る舞いを気を付けなければならず、大人になるというか、空気読むことが得意なのはそんな子供時代があったからなのだろう。

 

中学時代、部活から帰ると、母が泣いてた。

ただ様子が変だった。膝の靭帯を切ってたのだ。

いつもみたく取っ組み合い、父が手加減なく手を出し、母膝負傷。今で言うDVって奴。

 

このことを、僕自身誰にも言ってない、というか言えなかったし、そもそも親が自身の親へ怪我で通してた。

そう、家族の秘密になったのだ。

 

父は父で、酒を飲むと言葉遣いが荒く汚く野蛮になり、テレビを見てギャーギャー騒ぐのだ。それが嫌で嫌で。
そうして、カッコよく振る舞わざるを得ない社会と、本音飛び出す家庭とでバランスを取っていたのだろうか。
母は母で、不機嫌になるとあんたのせいで、何々が出来なかった…だとか、無視だとか、手をつねるだとか、痛かったなー。

 

そんな、親のDNAが入っている、自分が受け継いでいるのかと思うと…

そのことを考えるだけで僕は、背中に鳥肌が立つような寒気のような、とにかくゾワッとするのだ。